仕事の手が止まると、メモの端でペンが動いていることがあります。
資料を読んでいたり、原稿をまとめていたり、頭のなかの糸がもつれそうになると、パソコンを離れ無意識にペンを持つ手を動かしています。よく描くのはネコの絵。寝そべっているネコに、毛を一本足して、もう一本足して、ヒゲを増やし、耳の穴に影を付けて。ふと我に返ると、紙の端に小さな住人がひとり増えている。ノートの余白は、私にとって気楽な庭のようなものです。
幼い頃から、絵を描くのが好きでした。教科書のすみに、ノートのはじに、ちょこちょことしたイラストを描く。誰に頼まれたわけでもないのに、描かずにいられない。そんな癖は、大人になった今も抜けないままです。
幼い頃の私は、描いたものを誰かに見せるのも好きでした。
「見て見て」と差し出して、返ってくる反応を受け取る。上手いか下手かなんて、あまり考えていなかったと思います。絵は、言葉より先に出てくる「ねえ、聞いて!」のようなもので、見せるところまでが、描くことのひと続きだったのかもしれません。
ところが、その気軽さは、とある出来事で一転します。中学生の頃の、美術のデッサンの授業でのことです。
課題は、自分の手を観察して描くこと。まわりを見ると、クラスメイトの多くがグーやピースサインを選んでいました。形がはっきりしていて、描きやすいのでしょう。けれど私は、あえて違うポーズを選びました。野球ボールを投げ終えたあとのような、脱力した手。指先がどこかを目指し、動きの余韻がまだ残っているような形です。
描きながら、私はこっそり得意になっていました。みんなのグーやピースより、ずっと個性的でいいじゃない。その独特なポーズゆえ、決して「上手」なデッサンではないという自覚はありましたが、胸のなかはどこか弾んでさえいました。
出来上がった絵を、近くにいた友人に見せました。そして、返ってきたのは、こんな一言です。
「複雑骨折した人の手みたい」
冗談だったのだと思います。言葉の最後に(笑)が見えるような、軽い口調だったような気もします。友人に悪気があったとは、今も思っていません。
けれど、その一言は、ふくらんだ風船に針が触れたかのような言葉でした。得意になっていた気持ちは、あっという間に空気ごと抜けていった。しかも、しぼんでいったのはあの一枚の絵に対する自信だけではありませんでした。それ以来、ノートの端の、ほんの落書き程度の絵にまで、「また何か言われるかもしれない」という薄い影が差すようになりました。
それからの私は、軽い気持ちで人に絵を見せなくなりました。
描くのをやめたわけではありません。ノートの端には、相変わらず小さなイラストが増えていきます。ただ、それは誰にも見せない、鍵をかけた日記のようなものになりました。誰かが覗き込みそうになると、さりげなく手で隠す。「何描いてるの?」と言われることも苦手でした。
描きたい気持ちと、見られたくない気持ち。気持ちはあっちこっちしながら、それでも落書きは続いていました。
人の目が気になる、という感覚は、不思議な生き物のようです。ふだんは小さく丸まって眠っているのに、「見せる」という場面になると、のっそり起き上がってくる。そのくせ、ひとりでペンを走らせているあいだは、影も形もありません。落書きをしている最中の私は、上手いか下手かを、あまり気にしていないような気がします。
評価は気になるのに、手は止まらない。人目と衝動のはざまにあるこの時間は、いったい何なのでしょう。

そんな私が、ある日、書店で一冊の本と出会いました。『決定版 脳の右側で描け』(ベティ・エドワーズ 著、野中邦子 訳/河出書房新社)です。特別、探していたわけではありませんでした。たまたま目に入って、面白そうだな、と手に取った本です。
ページをめくって、まず気づいたのは、この本が、絵のうまい人のための本というよりも、もう少し手前にいる人に向けて作られているということでした。出版社の紹介によると、この本の絵の練習は基礎レベルで、対象は絵の初心者です。まったく描けない人、自分には才能がないと感じている人、絵を描けるようになることはおそらく永遠にないと思っている人。そうした人たちを想定した内容なのだそうです。
本の冒頭では、絵を描くためには技法が必要であり、適切な指導を受ければ上達するものである、という内容が説明されています。いわゆる上手い・下手は、才能だけで決まるものではない、ということです。
私は長いあいだ「才能」という言葉を物差しのように握りしめていたのかもしれない、と思いました。中学生の頃に描いたあの複雑骨折の手は、才能がないことの証拠ではなく、まだ描き方を身につけていなかっただけの絵なのではないか。
著者のベティ・エドワーズは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校の美術学部で教授を務めた人で、UCLAで美術、教育、認知心理学の博士号を取得しています。絵を描くこと、教えること、心のはたらきを探ること、という三つの顔を持つ人が書いた本だと知り、新しい視点を与えてくれそうで新鮮でした。
目次を眺めるだけでも楽しい本です。全12章のうち、第3章は「あなたの脳、その右側と左側」。書名のとおり、脳のはたらきから絵を考える視点が示されています。そのあとは、輪郭線、空間、遠近法、人の顔、光と影と、描くための要素をひとつずつ学ぶ構成です。出版社の紹介では、教育や脳科学の新しい知見を取り入れた改訂版で、描き方を学ぶだけでなく、創造的な思考を高める知覚のトレーニングにもなる、とされています。
そして第5章の題は「子供のころは誰でも芸術家だった」。この題を目にしたとき、私は、ノートを差し出して「見て見て」と言っていた頃の自分を思い出しました。
思えば、あの美術の授業でも、先生はきっと手の描き方を教えてくれていたはずです。ただ、先生の説明を、あの頃の私はうまく受け止められなかっただけなのかもしれません。それなのに私は、その理由を探す前に、「才能がないから」と、自分で採点を終えてしまっていたのです。
けれど、そうして採点を終えたはずの私が、それでもやめなかったものがあります。ノートの端の落書きです。
人に見せるための絵には、見る人の目の向こうに採点表がぶら下がっています。けれど落書きには、それがありません。誰にも提出しない、誰にも採点されない、ただ手が動くだけの時間。私にとっては、小さな空き地のような安心を感じる行為なのかもしれません。
仕事の合間に落書きをしてしまうのも、現実逃避ではないのかもしれません。手を動かしているうちに、頭のなかが少し整理されていくような気がするのです。上手く描こうとしていないからこそ、肩の力が抜けるのだと思います。そう考えると、落書きの時間は、「ちゃんとした絵」になれなかったものではなく、自分に戻るための時間なのかもしれません。
幼い私は、見せることを少しも怖がっていませんでした。その子は今も、ノートの端にいます。人の目という物差しを手にする前に動いていた手が、そのまま、メモの余白で動いている。そう思うと、あの頃の「見て見て」が、少し懐かしく、そして今の私にも、まだ言えそうな気がしてきます。
『決定版 脳の右側で描け』は、デッサンの技法書です。けれど私にとっては、評価の物差しを持つ前の手に、もう一度会いに行くための本になったような気がします。絵に自信がない人も、昔は描くのが好きだったという人も、ページをめくるだけで何かが動き出すかもしれません。


