はじめまして。雨音選書チームメンバーの福田です。
本と過ごす時間が好きで、気づけば読むものにあまり垣根がなくなりました。ミステリーでは謎が解ける瞬間に膝を打ち、恋愛小説では胸の奥をつかまれる。海外の名作小説には背筋を伸ばして向かい、ノンフィクションや心理学、哲学の本では、頭の中の畑をざくざく耕してもらう。
このコラムでは、そんな私が最近心を動かされたことを、思いつくままに書いていきます。そして、その話の続きを語ってくれそうな本をご紹介します。選ぶ側がどんなことに心を動かされる人間なのか、そこをのぞいていただけたら幸いです。
さて、初回は「食欲の秋」の話です。
栗に、さんまに、新米。秋の食べものを数え上げればきりがありませんが、私の秋は、少し変わったところから始まりました。休日の夜に観た一本の映画です。
先日、映画『リトル・フォレスト 夏・秋』を観ました。橋本愛さん主演、五十嵐大介さんの漫画が原作で、2014年に公開された作品です。四季を通して描かれる全四部が「夏・秋」と「冬・春」の二部に分けて劇場公開され、これはその前半にあたります。
主人公のいち子は、一度は都会に出たものの、そこに自分の居場所を見つけられず、東北の山あいにある小さな村・小森へ戻ってきた女性。近くにスーパーもコンビニもないので、田畑を耕し、野や山で採れた季節のものを料理して、毎日を過ごしています。言葉よりも、自分の体が感じたことを信じる人で、何でも自分でやってみないと気がすまない性分です。自然は豊かな恵みをくれる一方で、ときには厳しい顔も見せる。そんな暮らしの中で、いち子は少しずつ、一歩を踏み出す勇気をたくわえていきます。
いち子の台所から生まれるものの、ひとつひとつが魅力的に映りました。夏は、湿気対策に火を入れた薪ストーブでパンを焼き、友人のユウ太と自家製の米サワーを分けあい、グミの実を採って、酸っぱいジャムを煮ます。秋になると、アケビの皮をサブジ風の炒め物にして、稲刈りの頃には、去年のお米と堅いクルミの炊き込みご飯をお弁当に。集落では栗の渋皮煮が一時流行して、それぞれの味を競い合っています。
自給自足と聞くと、私はつい「大変そう」「不便そう」と、頭の中で電卓を叩きはじめてしまうタチです。ところが、いち子の暮らしを眺めているうちに、その電卓を叩く手が落ち着いていきました。育てて、採って、台所へ運んで、食べる。その一続きの道のりが、途中で切れることなく一本の糸のようにつながっている。それがただ、とても美しく見えたのです。
もちろん、その糸はきれいごとばかりで撚られたものではありません。秋には、いち子が合鴨を自分の手で絞めて解体し、料理する場面もあります。命をいただくところまで含めて、ひとつながりの道のりなのです。
翻って、ふだんの私の食事はどうでしょう。道のりはスーパーの棚でぷつんと途切れていて、その先にあるはずの畑や、土や、雨のことを、ほとんど思い出さないまま食べています。それが悪いことだとは思いません。けれど、いち子の糸が最後まで続いているのを見たあとでは、自分の手元に残っているのが短い糸の端っこだけのように感じてしまいました。
また、こんな台所の場面もありました。
いち子は料理をしながら、五年前に突然家を出ていった母のことを思い出します。いち子はそれまで、母の畑仕事も料理も、どこかずぼらだと見下していました。ところが、自分で同じ青菜のソテーを作っても、母のようにはおいしくならない。やがて、気づくのです。母は、青菜の筋を一本ずつ取って、丁寧に料理をしていたのだと。いい加減だったのは、母ではなく自分のほうだったのだと。味というのは、口に入るまでの、目に見えない手間の積み重ねでできているのかもしれません。
観終わったあとに残ったのは、「おいしそう」という素直な感想よりも、「食べる」という行為にはこんなに長い前置きがあるんだよな、という静かな驚きでした。食欲はお腹の底から勝手に湧いてくるものだと思っていたけれど、もしかしたら、食べものに至るまでの道のりに思いを寄せることでも、じわじわと育つものなのかもしれない。そんなことを考えながら、エンドロールが終わったあとも、しばらく画面にじっと見入っていました。

そのとき、ふと頭に浮かんだのが、この夏のゴーヤです。
私は今年の夏、ささやかな家庭菜園でゴーヤを育てていました。初夏に植えた苗は、最初のうち、細い茎に頼りない葉っぱがついているだけ。これがほんとうに夏の食卓に届くのだろうかと、半信半疑で眺めていました。
ところが、ゴーヤというのはなかなかの野心家でした。私がしていたのは、肥料をまいて、水やりをするくらいのものです。それなのに、つるは毎日指一本ぶん伸びていて、巻きひげは空をたぐり寄せるように、くるくると何かをつかもうとしている。昼間の日ざしを浴びた葉は、手のひらを広げるみたいに大きくなっていく。水をあげているだけの人間は、日ごとに増していく緑の勢いに、ただ感心してしまいました。
水やりを始めて数週間後。葉かげにぶら下がった実も成長し、待ちに待った初収穫の日です。あまり大きくはありませんでしたが、それすらもかわいらしさの証のように感じました。
台所で縦に切って、スプーンでわたと種をかき出すと、しゃり、しゃり、と乾いた音がしました。炒めて、口に入れると、ひと口目の苦みは、夏の日ざしをぎゅっと煮詰めたような味。
何でも自分でやってみないと気がすまないいち子の畑にくらべたら、私の菜園なんてままごとのようなものです。それでも、ゴーヤ一株ぶんの「やってみた」で、道のりがつながっているというあの感覚の端っこを、少しだけ分けてもらえた気がしました。
しゃり、しゃり。あのわたをかき出した乾いた音が、不思議といまも耳に残っています。
思えば台所には、いろいろな音があります。包丁がまな板を打つ音、鍋の蓋が鳴る音、蛇口から落ちる水の音。ふだんは意識にものぼらないのに、なくなった途端に家が静かすぎて落ち着かなくなる、あの音たち。
今回ご紹介する一冊は、まさにその音を主役にした短編集、幸田文の『台所のおと』です。
ここで、作者のことを少しだけ。幸田文は、文豪・幸田露伴の次女として、1904年に東京の向島で生まれました。1990年に86歳で亡くなっていて、『台所のおと』は、亡くなったあとに刊行された一冊です。
中には十編の短編が収められています。どれも半世紀以上前に雑誌に載ったもので、描かれているのは、昭和を生きた女性たちの何気ない毎日です。耳を澄まし、目を配り、心を寄せるようにして、暮らしの細かなところがすくい取られています。十編のなかには、その名もずばり「食欲」と題された一編もあって、食欲の秋に手に取るには、おあつらえ向きの題だと思いました。
表題作の主人公は、料理人の佐吉です。病の床にある佐吉は、台所から聞こえてくる音に、じっと耳を澄ませています。そして、あるとき気づくのです。妻のたてる音が、いつもと変わった、と。
小さな料理屋を営む佐吉に代わって、歳の離れた妻・あきが台所に立っています。あきは、ある重いものを胸にしまいこんだまま、包丁を握っている。それを夫に気づかれまいとするほど、音は、かえっていつもの音ではなくなってしまう。悟らせまいとする女と、何かを感じ取っている男と。二人とも、決定的なことは口にしません。声高にものを言わない代わりに、台所の音だけが、互いを思う気持ちを運んでいきます。
女はそれぞれ音をもっている。
音には、言葉にならないものをこっそり運ぶところがあると思います。家の中の足音ひとつで、帰ってきた人の機嫌がなんとなく分かってしまう、ということはないでしょうか。声には出さない気持ちほど、不思議と、手もとや足もとの音に出てしまう。それを台所という舞台で描いた一冊が、『台所のおと』のように思います。
最後に…雨音選書という名前の看板を背負った最初のコラムで、「おと」の本を選ぶというのは、できすぎでしょうか。このコラムでは、本を選ぶ私たちの暮らしの音もお届けできたらと思っています。
次回もよろしければ、お付き合いください。


