同じ午後を、違う席から——事件は起きない。なのにミステリー。

同じ午後を、違う席から——事件は起きない。なのにミステリー。

こんにちは、雨音選書チームメンバーの福田です。

ミステリーが好きだと言うと、決まって「じゃあ、犯人もすぐわかっちゃうんですか?」と聞かれます。期待のまなざしを向けられるたび、私は少し申し訳なくなります。なにしろ、犯人当てはあまり得意ではないのです。名探偵が関係者を居間に集めたとき、私の推理はたいてい的外れのまま、ページの上を空まわりしています。

それでも、ミステリーはやめられません。初回のコラムでは「謎が解ける瞬間に膝を打ち」と書きましたが、思い返してみると、私が膝を打っているのは、答えそのものより、そのひとつ手前の場面かもしれません。同じ出来事を見ていたはずの人たちが、まるで別々の景色を語りはじめるところ。「えっ、あなたにはそう見えていたの?」と、読んでいるこちらが目をまるくするところです。

そんなことを考えるきっかけになった出来事がありました。

この前の休日、数か月ぶりに会う友人とランチをしました。それから数日後の夜、友人のほうから電話がかかってきました。すっかりリラックスした恰好での、他愛ないおしゃべり。あの日、もう寒いねと言いながら食べたかき氷を思い出しながら、笑っていました。

話が一段落したところで、友人があらたまった様子で話しはじめました。

「そういえば、この前はありがとね。私の話をずっと聞いてくれたから、ほんとうに救われたんだよ」

私は反射的に眉間にしわを寄せました。友人の言葉は、間違いなくうれしい言葉です。けれど、あの日の午後を頭のなかで巻き戻してみても、そんな場面が出てこないのです。出てくるのは、むしろ逆のことばかり。友人が相談を切り出すたびに、気づけば自分の話にすり替わっていたこと。自分のことばかりしゃべる私は、それを自覚するたびに「またやってしまった」と自己嫌悪しながら、それでもまた言葉がついて出るのを止められないでいた、はずなのです。

「そうだった?」と言う私に、友人は「そうだよ」と即答しました。どちらも、相手が間違っているとは思っていません。嘘もついていません。それなのに、たった数日前、同じテーブルで過ごした二時間が、まるで同じ舞台を別々の客席から観ていたかのように、どうしてもぴたりと重ならないようでした。

電話を切ったあと、暗くなった窓に映る自分の顔を眺めながら、ずっと考えていました。自分の話ばかりしていたと思っている私と、とことん話を聞いてくれたと感じている友人。どちらの私が、ほんとうの私なのでしょう。ミステリーなら、証言の食い違いは胸の躍る場面です。ところが自分が当事者になると、足が空を切るように、どことなく落ち着かない気持ちになるのでした。

そのとき、ふと感じたのです。私がミステリーを読むときに惹かれているのは、「謎」よりも「人の見方のずれ」かもしれないと。

名探偵ものの面白さは、トリックの巧妙さだけではありません。関係者が、同じ夜の同じ出来事を、それぞれの立場からそれぞれの主観を通して語る。その語りの隙間にできた小さな段差を、探偵がコツコツと何度も歩いて確かめる。私は、謎が解かれるよりも手前の、あのひやりとする一瞬を追いかけて、ページをめくってきたのかもしれません。

そして、段差は殺人の現場にだけあるわけではありません。誰の毎日にも転がっています。ならば、ミステリーに事件は必要なのでしょうか。血も、犯人も、名探偵もいなくても、人の見方のずれさえあれば物語は謎として成り立つのではないか。

雨の窓辺の二人がけのテーブル。向かい合う椅子と、食べかけのかき氷が二つ

その疑問に、先日読み終えたばかりの一冊が、見事な答えを返してくれました。今回ご紹介するのは、アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』です。

アガサ・クリスティーといえば、名探偵ポアロやミス・マープルを生んだ、ミステリーの女王です。ところが、この『春にして君を離れ』は、ミステリー作家であることを伏せ、「メアリ・ウェストマコット」という別名で、1944年に発表した小説です。この名義のロマンス小説は六作あり、本書は三作目。私が読んだのは、光文社古典新訳文庫の廣野由美子さん訳です。

題名は、シェイクスピアのソネット第98番の一行から取られています。解説によると、もとは同性の恋人との別離を歌った詩だそうです。クリスティーは戦時中、夫と離れて暮らしていた頃、離れ離れで過ごす春を嘆く手紙を夫に書き、そのあと、わずか三日間でこの小説を一気に書き上げて、コピーを夫に送ったといいます。

主人公は、ジョーン・スキューダモア。1930年代のイギリスの田舎町で、弁護士の夫と三人の子どもを持つ主婦です。自分は「良き妻、良き母」だと自負していて、夫のことも子どものことも、誰よりもよく知っていると信じています。

そのジョーンが、バグダッドで急病にかかった末の娘を見舞った帰り道、イラクの鉄道宿泊所で、女学校時代の旧友と偶然再会します。この旧友の言葉が、ジョーンが思いをめぐらせはじめる糸口になります。やがて荒天で交通が寸断され、トルコ国境に近い砂漠のただなかの駅のレストハウスで、旅行者はジョーンただ一人。何日も足止めされることになります。

「それのどこがミステリーなの?」と思われたでしょうか。確かにこの物語では、殺人どころか、事件らしい事件は何も起こりません。ただ、ある平凡な主婦が、旅の途中で時間をもてあまし、過去を振り返るうちに、自分の実像を発見していく。それは「ジョーン自身が探偵となって自らの謎を解く」ミステリーなのだ、と解説は述べています。

何もすることがなくなったジョーンは、来し方を思い返しはじめます。家族とのやりとりを思い出すたびに、「良き妻、良き母」という自己像は、次第に崩れていく。やがて彼女は、自分の家族や人生についての認識に疑いを抱き、今まで気づかなかった真実に気づいていきます。砂漠の駅で彼女が向き合うのは、犯人ではありません。自分がずっと見てきたはずの、自分自身と、まわりの人たちの姿なのです。

版元の紹介文には、「私の人生は、私の思っているとおりだろうか」という一文が掲げられています。解説には、どこの家庭にもありそうな問題を描いた作品だとして、ジョーンに自分を重ねる読者も多いのではないか、と書かれています。事件は起きない。なのに、靴の中に入り込んだ小石のように、気になり続けてしまう。

あの夜の電話に、話を戻します。

あの日、友人の記憶のなかにいた「話を聞いてくれる私」は、私の知らない私に見えました。どちらが正しいのか、おそらく決着はつかないでしょう。それでも、電話の向こうで笑っていた友人の声を思い出すと、自分の話ばかりしていた私も、話を聞いてくれたと覚えていてもらえる私も、角度を変えて眺めた同じ一人の姿なのだと思えてきました。

ジョーンのように砂漠の駅で足止めされなくても、立ち止まって自分の記憶を点検したくなる日は、誰にでもあるのかもしれません。

同じ一冊を読んでも、人によって感想がまるで違うことがあります。私は、その人が本のなかで見ている景色や、その人の頭上に広がる空の色を、いったいどこまで想像できているのでしょう。

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この記事を書いた人

美容と医療の分野で会社員として勤務し、専門知識を活かしたライティングを展開。女性支援NPOでアートや自助会のファシリテーターも務める。美容・健康分野を中心に、読書、言葉、AI、投資、生活関連からライフハックまで幅広いジャンルの記事を手がける。地元メディアで取材ライターとしても活動し、地域に根差した情報発信にも携わっている。

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