『とはずがたり』は、後深草院に仕えた女房・後深草院二条が自分の半生をつづった全5巻の日記文学です。数え14歳(1271年)から数え49歳(1306年)までを書き、成立は1306年以後・1313年ごろまでとされます。天皇や皇族との関係を隠さず書いたため「やばい」「暴露本」と呼ばれ、現存する写本は宮内庁書陵部が所蔵する桂宮本5冊だけ。本記事では全5巻のあらすじと、そう呼ばれる理由を整理します。
| 作品名 | とはずがたり |
| ジャンル | 日記文学(自伝的回想録) |
| 作者 | 後深草院二条(1258年生・没年不詳) |
| 成立 | 1306年以後、1313年ごろまで |
| 巻数 | 全5巻 |
| 描かれる期間 | 数え14歳(1271年)〜数え49歳(1306年) |
| 現存写本 | 桂宮本5冊のみ(宮内庁書陵部蔵) |
| 発見 | 1938年冬、山岸徳平が宮内省図書寮で発見 |
『とはずがたり』とは|宮中の女房が書いた全5巻の日記文学

『とはずがたり』とは、鎌倉時代の後期に、後深草院の女房だった後深草院二条が自身の宮仕えと出家後の旅を書いた日記文学です。前半の巻一から巻三までが宮中での生活、後半の巻四と巻五が尼となってからの旅で、内容が前後で大きく変わります。
表題は「(人から問われなくても)語らずにはいられない」という意味だとされます。院に仕える女房が、自分の気持ちを書き残しておきたいという理由から記したといわれる作品です。
原文ではなく内容を知りたい人には、下記の現代語訳が読みやすい一冊です。(原文の併記はありません)
- 『とはずがたり』佐々木和歌子訳/光文社古典新訳文庫/2019年10月刊
柔らかい文体で、原文で読むのが難しいと感じる人でも進めやすい訳です。日本の伝統色や京周辺の地図、作者の家系図なども収録されています。
成立はいつ?1306年以後・1313年ごろまでに書かれた
本文が書き記す出来事は、二条が数え14歳の1271年(文永8年)から、数え49歳の1306年(嘉元4年)ごろまでです。この下限より後に書かれたことになり、成立は1306年以後、遅くとも1313年ごろまでと見られています。鎌倉幕府に政権が移り、朝廷が二つの系統に分かれていく時期にあたります。
現存するのは桂宮本5冊だけ|1938年に発見された「天下の孤本」
『とはずがたり』の写本は、宮内庁書陵部が所蔵する桂宮本5冊しか残っていません。同じ系統の別の写本が見つかっていないことから「天下の孤本」と呼ばれます。写本が世に出たのは1938年(昭和13年)の冬で、国文学者の山岸徳平が宮内省図書寮で見つけました。第二次世界大戦の直前という時期もあり、本格的な研究が進んだのは終戦後です。
本文には刃物などで切り取られた箇所があり、つじつまの合わない部分や、結末が途切れている部分があります。天皇家に関わる内容を広めるわけにいかず、意図的に伏せられていた可能性が指摘されています。
『とはずがたり』が「やばい」と言われる3つの理由
『とはずがたり』が「やばい」「暴露本」と言われる理由は、次の3つに整理できます。
- 実在の天皇・皇族との関係を、作者本人が書いている…後深草院、その弟の亀山院、出家した皇族など、身元のわかる相手との関係が当事者の視点で書かれています。
- 院の意向で他の男性のもとへ差し向けられる場面がある…仕える立場の女房が、自分の意思とは別のところで相手を決められていく過程が、そのまま記されています。
- 子の出生と、その扱いまで書かれている…誰の子であるかを伏せて育てる、他家に預けるといった処置が具体的に書かれており、宮中の内情がわかる記述になっています。
ただし、これは当時の宮廷を告発するために書かれた文章ではありません。二条は自分の行いも含めて書いており、後半では出家して各地を旅しています。「気持ち悪い」と感じるか、当時の女房の立場を伝える記録として読むかで、印象は大きく変わります。
作者・後深草院二条と主要人物
作者の後深草院二条は、1258年(正嘉2年)生まれ。父は中院大納言・源雅忠(久我雅忠)、母は四条隆親の娘で大納言典侍と呼ばれた近子です。母が後深草院の乳母だった縁で4歳のころから院のもとで育てられ、14歳で女房として出仕しました。没年はわかっておらず、1306年(嘉元4年)以後とされます。
二条が実在の人物かどうかは長く議論されてきました。貴族の系図である『尊卑分脈』の久我雅忠の項に、娘の存在が確認できないためです。現在は実在した女性と見るのが一般的ですが、生涯の細部を裏づける史料は乏しいままです。
主要人物6人と作中での役割
| 作中の呼び名 | 比定される人物 | 作中での役割 |
|---|---|---|
| 御所(ごしょ) | 後深草院(1304年崩御) | 二条が仕えた院。乳母だった二条の母の面影を重ねてかわいがる。亀山院との関係を知って宮中から退出させ、後に帰参を求める。 |
| 雪の曙(ゆきのあけぼの) | 西園寺実兼とする説が有力 | 幼いころから将来を誓った相手。距離を置いた後も、二条の頼みを聞いて力を貸す。 |
| 有明の月(ありあけのつき) | 性助入道親王・法助准后・浄助法親王など諸説 | 出家した高位の僧。祈祷で訪れて二条と結ばれ、子をもうけたのち流行り病で亡くなる。 |
| 近衛大殿(このえのおおいどの) | 鷹司兼平 | 後深草院を支える太政大臣。院に願い出て二条を自分のもとへ呼び寄せる。 |
| 東二条院(ひがしにじょういん) | 西園寺公子(1304年没・73歳) | 後深草院の中宮で、院の母の妹にあたる叔母。院より11歳年上。二条を敵視し、退出を求める。 |
| 遊義門院(ゆうぎもんいん) | 姈子内親王 | 後深草院と東二条院の皇女。巻五で両親の死後に二条へ優しく接し、歌をやり取りする。 |
「雪の曙」「有明の月」は作中の呼び名で、実在の誰にあたるかは研究者の推定です。とくに有明の月は、性助入道親王とする説のほか法助准后説・浄助法親王説があり、確定していません。
『とはずがたり』のあらすじ|全5巻の流れ

全5巻の内容を1行ずつにまとめると、次のようになります。
| 巻 | 作者の年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 巻一 | 14歳〜17歳ごろ | 女房として出仕。雪の曙との子を産むが引き離され、17歳で出家を望むようになる。 |
| 巻二 | 18歳〜20代前半 | 有明の月と結ばれる。近衛大殿のもとへも差し向けられ、御所への不信が募る。 |
| 巻三 | 20代半ば〜26歳ごろ | 有明の月との子をめぐる処置。亀山院との噂が立ち、宮中を退出する。 |
| 巻四 | 32歳ごろ〜 | 出家し、西行にならって東国へ。鎌倉で将軍の交代を目にする。 |
| 巻五 | 45歳ごろ〜49歳 | 西国へ旅し厳島神社へ参拝。東二条院と後深草院の死を知る。 |
巻一…宮中での作者と御所との関係
宮中で御所にかわいがられて育った二条は14歳になり、亡き母の面影を重ねる御所に望まれて宮仕えに上がります。15歳で父も亡くし、後ろ盾のない身に。恋人だった雪の曙とのあいだに内緒で子を産みますが、その子はどこかへ連れ去られてしまいます。宮仕えの身として御所と他の女性との逢瀬を手伝わされ、東二条院からはつらく当たられ、17歳にして出家を望むようになりました。
巻二…御所以外の男性との逢瀬
正月の宮中で女房たちが御所に仕返しをした一件で、二条は首謀者だと濡れ衣を着せられます。御所の病気平癒の祈祷に現れた有明の月が二条に好意を寄せ、二人は結ばれることに。御所の病が癒えると二条の気持ちは冷め、有明の月からひどく恨まれて落ち込みます。尼になろうとしたところを雪の曙に止められ、御所のもとへ戻されました。御所は実力者である近衛大殿の求めに応じ、二条を差し向けます。御所への不信感が次第に募っていきます。
巻三…有明の月との子と、宮中からの退出
皇女の病気平癒の祈祷に再び訪れた有明の月と、二条は関係を戻します。御所の取り持ちで公認の仲になりますが、御所自身は二人の関係に嫉妬し、二条の気持ちは複雑です。御所の母の快気祝いの祝宴では、東二条院から「正妻のように扱われている」と嫌がらせを受けます。
有明の月とのあいだに生まれた子は、一人は他家へ預けられ、もう一人は有明の月の死後に生まれています。やがて宮中で、御所の弟である亀山院と二条が通じているという噂が立ちました。東二条院から退出を求められ、御所もかばうことはありません。後から帰参を求められますが、二条は毅然とした態度で実家に戻ります。
巻四…追放後に出家し東国への旅
32歳ごろ、かねてからの希望どおり二条は尼になります。西行を手本に東国を旅して修行と歌の道に生きようと決意し、江の島を越えて鎌倉へ。その地で将軍・惟康親王が廃されて京都へ送り返される様子を目にし、御所の皇子である久明親王を迎える支度を手伝います。
尼寺で学問を修めようとするものの、宮中の華やかな暮らしが浮かんで寂しさが募ります。岩清水八幡宮で御所と再会したのち、御所に招かれて出家後の生活を語り明かします。覚悟を決めたはずの心が、以前の暮らしとのあいだで揺れているのが読み取れる巻です。
巻五…御所と東二条院を悼む西国への旅
45歳ごろの二条は西国へ向かい、瀬戸内海で出家した遊女たちと交流しながら厳島神社に参拝します。庵に住む尼のもとに逗留し、親切な女性たちと親しくなりました。奈良にいたところで、東二条院の死と、御所が重い病にかかっているという知らせを耳にします。雪の曙に頼んで病床の御所を少しだけ見せてもらいますが、崩御した御所への目通りは叶わず、棺を素足で追いかけました。東二条院も後深草院も、1304年(嘉元2年)に世を去っています。
岩清水八幡宮で二人の冥福を祈る二条は、皇女の遊義門院が供養に訪れると聞いて声をかけます。遊義門院は優しく接し、歌や手紙をやり取りする仲になりました。この日記を書いた理由もここで語られますが、結末は失われており、最後に何を言おうとしたのかははっきりしません。
編集長のひとこと:主要人物を先に押さえてから本文に入る
田中寛大古典を読み通せるかどうかは、最初に人物関係を押さえられたかで決まると感じています。大学院で学術書を精読していたころも、用語の定義を先に並べてから本文に入ると、同じ文章が急に読めるようになりました。
『とはずがたり』は主語が省かれ、人物が官職名や作中の呼び名で入れ替わり立ち替わり現れます。上の人物表と全5巻の早見表に一度目を通してから本文に入ると、途中で誰の話かわからなくなる場面が減ります。
小説そのものの読み進め方は「小説の読み方のコツ」でも整理しています。
『とはずがたり』に関するよくある質問
- 『とはずがたり』はいつ書かれた作品ですか?
-
1306年(嘉元4年)以後、遅くとも1313年ごろまでに成立したと見られています。本文が書き記す出来事が、作者が数え14歳の1271年から数え49歳の1306年ごろまでのため、その下限より後に書かれたことになります。鎌倉時代の後期にあたります。
- 『とはずがたり』が「暴露本」「やばい」と言われるのはなぜですか?
-
後深草院をはじめとする実在の皇族・貴族との関係を、当事者である作者本人が書き残しているためです。院の意向で他の男性のもとへ差し向けられる場面や、生まれた子の扱いまで具体的に記されています。宮中の内情が伝わる内容だったため、意図的に伏せられていた可能性が指摘されています。
- 作者の後深草院二条はどんな人物ですか?
-
1258年(正嘉2年)に生まれた、後深草院に仕えた女房です。父は中院大納言・源雅忠。母が院の乳母だった縁で4歳のころから院のもとで育ち、14歳で出仕しました。32歳ごろに出家してからは西行にならって諸国を旅し、歌の道に生きようとしています。没年は不詳で、1306年以後とされます。
- 写本が桂宮本しか残っていないのはなぜですか?
-
理由は確定していませんが、天皇家に関わる内容のため写しが広まらなかったのではないかと考えられています。現存するのは宮内庁書陵部が所蔵する桂宮本5冊のみで、同系統の別写本が見つかっていないことから「天下の孤本」と呼ばれます。刃物で切り取られた箇所もあり、結末は失われています。
- 『とはずがたり』の結末はどうなりますか?
-
結末部分は失われており、最後がどう締めくくられたかはわかりません。現存する巻五は、後深草院と東二条院の冥福を祈る二条が、二人の皇女である遊義門院と歌や手紙をやり取りする場面までを伝えています。日記を書いた理由もこのあたりで語られます。
- 現代語訳で読むならどの本がよいですか?
-
原文の併記が不要なら、佐々木和歌子訳の光文社古典新訳文庫版(2019年10月刊)が読みやすい一冊です。原文と注釈もあわせて読みたい場合は、岩波文庫(玉井幸助校注)、新潮日本古典集成(福田秀一校注)、講談社学術文庫(次田香澄訳注)などがあります。
『とはずがたり』は後ろ盾を失った女性の悲しみと強さを描いた記録
『とはずがたり』は、前半と後半で印象が大きく変わる作品です。宮中にいるあいだの二条は、身分の高い男性たちのあいだで流され、悔しさを抱えたまま日々を送ります。出家後の旅では、揺れる気持ちを抱えながらも各地の人と交わり、自分の足で歩いています。後ろ盾を失ってからの悲しみと、それでも生きていく強さが、同じ一人の女性の記録として並んでいるところが読みどころです。
宮廷に仕えた女性による日記文学では「蜻蛉日記のあらすじを紹介!約20年間の浮気夫の苦悩の日々を赤裸々に」も知られています。物語文学から古典に入るなら「竹取物語のあらすじ」もあわせてどうぞ。
古典で止まる原因は「文体」|朗読なら最後まで進むことがある
翻訳された古典や文豪の作品は、内容ではなく文体で止まることが多くあります。BOOK CRUNCH編集長はAudibleで約2,907時間・244冊を聴き終えていますが(2026年7月時点)、活字では途中で置いた作品ほど、朗読だと最後まで進みました。目で文字を追う負担がないぶん、言い回しの古さに引っかかりにくくなります。対象作品は入れ替わるため、聴きたい作品の配信状況は公式で確認してください。
\ いつでも退会できます /










